草取りをしていたら悟りを開きかけた
世間が諏訪湖花火大会で盛り上がるなか、
草取り中に考えたことをぐだぐだと書きますので
せんべいでも食べながらリラックスして読んでください。
忙しい人は仕事してください。
信州に移住して初めての夏。
職場の土地でほそぼそと野菜を育てていて
基本的に草ぼーぼーなのだけど
時間に余裕があるときにたまーに草取りをしています。
ここでいう「草」とは、
一般的に「雑草」と呼ばれる
「植えてないのに生えてくるいろんな草」
を指します。(オイペディア)
無心に草を取りながら、
こうして「草」の定義などを考えていたら(無心じゃない)
ふと
「この草たちは私に抜いて捨てられるほど悪いことをしたのだろうか」
と
一種の罪悪感のようなものが芽生えてきました。
彼らはただそこに芽吹いているだけで
人がそこに野菜を植えなかったら抜かれることもなかったのです。
そもそもこの大地の栄養は
人間が植えた植物のためだけにあるはずもなく。
しかも草ぼーぼーの畑でも、それなりの野菜が収穫できているのです。
さらには、趣味の畑ゆえ野菜ができなくたって食糧難に陥るわけではない。
残念に思うくらい。
「自分の土地」と思うから
自分が植えたもの以外のものが育っているということにいらだち、
本当はそれぞれの名前があるにも関わらず
「雑草」「草」とひとくくりにして排斥するのです。
(自然農法は草と共存する方法らしいです)
そう考えると、
草取りには民族排斥と同質の心理がはたらいているようにも思えます。
本当のところでは、何一つ「自分のもの」ではないのにも関わらず
他者が「自分のもの」から利益を得ているように見えると憤慨し
何かしらの名前でひとくくりにして非難します。エスカレートすると排斥運動になります。
ヘイトスピーチとか、そんな風に見えます。
平和を求める系のデモでも、そんな人も混じっているように見えます。
「草取り」というささやかな営みのなかに
そんなエゴイズムがはたらいているとなると
これはもう
人間の本能に任せたら「戦争」は必然の事象であるということが
分かったような気がします。
ああ、でも、人が死ぬのは嫌だ。というのもまた本能的に感じるところです。
この件についてはまた考えようと思います。
何言ってるんでしょうね。
まとまらないので
次回につづく。(かもしれない)